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4月10日の土曜日、私の携帯電話に興奮気味のうわずった声で電話がかかってきました。

春の千葉県高等学校野球大会ブロック予選の1回戦で、35年ぶりのコールド勝ちを知らせる県立浦安高等学校同窓会の鈴木忠吉会長からでした。

思わず耳を疑い聞き返してしましたが、対戦相手を聞いて驚きも倍になりました。

相手はなんと10年前の平成12年、夏の甲子園大会で準優勝を果たし、市を感動の渦に巻き込んだ東海大学付属浦安高校で、私としては市内の高校同士の試合で、実に複雑な思いでしたが、電話を切った後、信じられない思いとともに、7年前のことを思い、感無量になりました。

平成15年8月のこの欄でも「がんばれ県立高校」とのタイトルで取り上げましたが、7年前、浦安市の冠校でもある県立浦安高校の建て直しのために、隣の市立浦安中学校の野球部の名物監督だった大塚知久教諭を、当時の西谷教育長と口説いて、中・高教員交流事業の制度を使って派遣したのが、つい昨日のように思われます。

当時の野球部員は、わずか6人しかおらず、ほかの運動部員を借りての大会出場で、当然のごとく試合にならず、コールド負けの連続だったように記憶しています。

当時の浦高の風紀も、茶髪や、遅刻・早退は当たり前で、何よりも中途退学者も多いうえに、進路未定で卒業する生徒が半数以上という、まさに異常事態でした。

交流事業による赴任から7年が経過しましたが、この間は悪戦苦闘の連続だったと聞きます。

しかし、野球部だけではなく、1年遅れてバスケットボール部の川本教諭や、さらに陸上競技部、バドミントン部、バレーボール部、弓道部など運動部を中心に、延べ7人の中学校の先生方が、歴代の校長先生と力を合わせ、スポーツを通して生活面から生徒たちを指導した結果、定員割れの状態から、平成21年度の特色化選抜における入学試験では倍率が2.78倍になり、関係者を喜ばせていました。また、これを受けて、22年度の定員は昨年の160人から40人増の200人になり、早くも関係者の改革が実を結びました。

喜びをさらに確実にしたのが、今回の春の野球大会でした。何とブロック予選2回戦でも6回コールド勝ちして県大会に進出し、県大会でも、甲子園出場校の成田高校や木更津総合高校、さらに専修大学松戸高校までも見事に下し、32年ぶりのベスト4に進出しました。

準決勝は、ゴールデンウィークの5月4日、県内屈指の強豪と言われる市立習志野高校と堂々互角に戦いましたが、1対3で惜しくも破れ、春の大会を終えました。

勝ち進むにつれて、最初は誰もがまぐれかと思っていたものが、これは本物だと確信するようになっていったのが、手に取るようにわかりました。

優勝校の習志野高校がある習志野市の市長からも準決勝の後に電話をもらいましたが、「よくぞここまで」とべた褒めでした。

結局、習志野高校には負けましたが、両校の出身中学校をみると、浦高の野球部の選手は、ほとんどが浦安市内と隣の行徳地区であることも声を大にして、誇りたいことです。

春の大会は、甲子園には直接、関係ないためにあまり脚光を浴びませんでしたが、夏の大会ではAシードとして注目を浴びることになりました。

最後まで全力を出し切った選手の皆さんの健闘を称えるとともに、生徒を信じて高校再建に取り組んでいただいた先生方に感謝しつつ、市民とともにこれからも温かく見守っていきたいと思います。

 

浦安市長 松崎秀樹
(広報うらやす第908号 2010年6月1日号に掲載)

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