危機管理監 連日、茹だるような猛暑が続いています。 小学校時代に習った日本の大半の地域を占める温帯湿潤気候が、間違いなく亜熱帯気候へと変わりつつあると思えるこのごろです。 猛暑の夏が過ぎて、秋が来ようとしていますが、厳しい残暑が心配されます。この夏、おやっと思ったのが、台風の発生数の少なさです。 さまざまな顔を見せる異常気象ですが、天変地異の予感が、頭をもたげてなりません。 そういったことも視野に入れ、浦安市で初めての危機管理監に阿部金二さんが、就任されたのが4年前の8月3日でした。 着任早々から実に多くの活躍をされた阿部金二さんでしたが、がんのため8月16日、多くの人から惜しまれつつご逝去されました。 私と阿部さんとの出会いは、平成16年10月23日に新潟県中越地震の際、足りなくて困っている赤ちゃんの粉ミルクとほ乳瓶を、ヘリコプターで緊急輸送した折、当時の小千谷市の関市長の隣で迷彩服で部下に大きな声で、てきぱきと指示を飛ばしていた姿を見たのが最初です。 まさか2年後、浦安市の危機管理監として来られるとは予想していませんでした。 本市に来られるまでは、新潟県の高田駐屯地の第2普通科連隊長として500人の部下を率いて常に自ら率先垂範し、災害救助に当たったことは有名で、自衛隊の名物男だった人です。 大柄で、愛すべき人柄は、市内の多くの自治会での防災訓練や、防災講演などで、自らの体験を基にしたさまざまな助言と指導でよく知られていました。 今年の1月に目の異常から検査をしたところ、全身に転移していたがんが見つかり、急遽入院治療していました。入院中も自分がやり残した市の防災上の課題について、幾度となく病床から担当職員に指示をしていました。 阿部さんの着任早々から、さまざまな事故や事件が相次ぎ、中でも忘れられないのが、旧江戸川でクレーン船が送電線を切断し、大停電となる事故で、首都圏を大騒動に巻き込んだ一件です。 このときの第一報が、早朝にもかかわらず、阿部さんから寄せられました。そのとき初めて、市役所が始業する前の午前7時ころから、健康維持を兼ねたマラソンで市内を巡回し、一汗かいてから仕事に就いていたことを知り驚きました。 新型インフルエンザの脅威が心配された際にも、阿部危機管理監をリーダーに機動部隊と訳されるタスクフォースを組み、一朝有事の際の対処行動計画を他市に先駆けて策定しました。 阿部危機管理監の後任として、8月3日、新たに澤畠博さんが二代目の危機管理監に就任しました。 澤畠危機管理監は、7月末まで陸上自衛隊で最も精鋭と言われる習志野空挺団の副団長で陸将補を務められ、前任者の阿部さんの防衛大学校時代の3期下で、4年生の時の1年生だそうです。 阿部さんの信頼も厚く、後任を託すに足るとのお墨付きを頂いての着任でもありました。 わずか4年間でしたが、職員に対してプロとは何かを知らしめてくれた阿部さんが、二代目の澤畠危機管理監の着任を確かめ、安心したかのように、その13日後に治療のかいもなく、幽明界を異にされました。 8月19日の告別式で市民を代表して、弔辞を述べながらさまざまな思いがこみ上げ、涙を堪えられませんでした。 改めて、故・阿部金二さんの四年間のご功績に感謝申し上げますとともに、衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。
浦安市長 松崎秀樹 |